
ビデオリサーチ九州支社のAです。
私は福岡県北九州市の出身で、大学から上京し足掛け20年ほど東京に住んでいたのですが、上京してすぐに、「福岡」と「博多」の違いをはっきりとわかっている人は、東京では少数派であることに気がつきました。また、北九州市に関しても正確な知識を持っている人は殆どいませんでした。
「福岡県博多市だろ」「福岡市の隣にあるのが博多だよね」「北九州って小倉のことだよね」「それって北九州地方だろ、九州北部ってこと?」等々・・・。
そこで、この機会にこれらをスッキリご説明し、併せて福岡・北九州の歴史の一端をご紹介しようと思います。
■「福岡」と「博多」のこと
現在の「博多」の正しい地名は「福岡県福岡市博多区」です。
博多区は、福岡県の県庁所在地である福岡市に7つある行政区の一つで、人口207,232人。1,440,809人の福岡市の中では14%を占めるだけです。面積は31.47km²で、341.11km²の福岡市のうちの9%にすぎません。
そもそも現在の福岡市は、明治11年(1873年)郡区町村編制法施行の際に城下町の福岡(現在の福岡市中央区)と商人町の博多(現在の福岡市博多区)が合併して生まれた「福岡区」を基としています。※)それ以来、昭和47年(1972年)に福岡市が政令指定都市となって行政区が定められ、博多区が誕生するまで約100年間、博多という名前は行政上の地名としては存在していませんでした。
それなのに、何故、博多が福岡以上に知られる存在になったのかというと、私が思うに理由は3つくらいあるようです。
※ 福岡と博多の境は那珂川という川です。この博多側の中州にあるのが、繁華街として有名な「中州」
です。「中州」の対岸福岡側が天神地区で、福岡市のビジネス・商業の中心。ビデオリサーチの九州支社もこの天神にあります。
○歴史 ~1,000年のハンディ~
一つは歴史的なことで、博多の方が福岡より圧倒的に古くから使われている地名だということです。
博多という地名が始めて歴史上に現れるのが8世紀末で、この頃は既に港町として栄えていたそうです。
対して福岡は、1600年に黒田家が城(福岡城)を築城した際に、城下を黒田家の地元の備前福岡(現在の岡山県)に因んで名付けたことから始まっていますので、博多より1,000年ほど新しいことになります。
因みに、福岡城が出来るまで、博多とは対照的に福岡には市街地は無かったのだと思います。鎌倉時代の元寇の戦いの際、後に福岡城が建てられた付近の赤坂というところで、鎌倉幕府軍の騎馬隊が蒙古軍と激戦を行っています。市街地で騎馬戦は出来ませんから、恐らくなんにもない原っぱだったのでしょう。
○双子都市
この1600年の福岡城築城から江戸時代の270年間、福岡は武家の町(=行政の町)、博多は町人の町(=商業地)として、隣り合った二つの町が独立して存在し続けました。※)
※ 私の知る限りでは、似た例はハンガリーの首都ブタペストです。ドナウ川を挟んで、西側が「ブタ」、東側が「ペスト」、併せて「ブタペスト」。
博多は単なる商業地ではなく、室町時代から大阪の堺と同じような商人による自治都市で、江戸時代に鎖国されるまで、大陸や南方との貿易都市として栄えました。
司馬遼太郎によると、現在の日本各地の風土は、江戸時代にその土地がどのようなものであったかに大きく左右されるとのことです。そのことは、福岡に生まれ、東京・広島・岡山・福岡で勤務した私には実感として納得できます。
例えば広島の西部は安芸の国、東部は備後の国で、前者は広島藩(安芸の国の全てと備後の西半分)で、毛利→福島→浅野と特に武勇盛んな外様大名(徳川家と縁のない大名)、後者は譜代大名(徳川家の親戚)が治めていました。ですから、かなり風土が違うように感じます。これが隣の岡山県ですと合計100万石の大大名で徳川家とも縁戚関係だった池田家の領地でしたから、全く違い、穏やかで文化的な土地柄でした。岡山でタクシーの運転手さんが「ここは池田家のお膝元だから、みっともないことはできません」と言っていたことが印象に残っています。
さらに司馬遼太郎は、「東京(=江戸)は武家の町、大阪は商人の町だったので、大阪の人は「お上」の怖さを知らない」とも書いています。福博(福岡と博多を総称してこういいます)はその両方が270年間、隣り合って存在してきたわけですから、東京と大阪の雰囲気を併せ持った街になったようです。東京も山の手と下町に分けられますが、あくまでも同じ江戸の中のことです。これに対し福博ははっきりと違う街として独立していたわけです。しかも博多は商人による自治都市ですから、町人文化が大変発達しました。
現在でも全国的に有名な、博多人形・博多織・博多祇園山笠など、全て博多の風物です。これが博多を有名にした二番目の理由だと思います。
○駅
三番目の理由が、駅です。
JRには福岡駅がありません。福岡市の主要駅は博多駅で、新幹線も博多に停まります。ですから、東京駅で頻繁に「次の、のぞみ○○号博多行きは・・・」といったアナウンスが流れることになり、福岡という名前は全く出てきません。
なぜ、福岡駅が無いかというと、前述の明治の福博合併の時に、市の名前を福岡にするか博多にするかで大もめにもめ、議会での一票差で「福岡」が勝ったという経緯がありました。そこで博多をなだめるために「今後、駅は博多に置き博多駅とする」という約束が取り交わされたのです。その後駅は3回移転しましたが、律義に博多に置かれ現在でも駅は博多区内にあります。
因みに空港も博多区内にありますが、名前は「福岡空港」です。あくまでも約束は「駅名」ということなのでしょう。
このせいで、東京の人が「福岡に行くなら飛行機の方が良いだろ?だって、新幹線は福岡じゃあなくて博多行きだろ?」といった、頓珍漢(失礼ですが)なことを言ったりするようになったのでしょう。
■北九州市 ~複合都市の悲劇?~
「小倉」の現在の正しい地名は「福岡県北九州市小倉北区」及び「同小倉南区」。博多と同じで、行政区の一つです。
因みに北九州市には、八幡西・八幡東・若松・戸畑・小倉北・小倉南・門司の7つの区があります。こう列挙すると、ご存じの地名が多いと思います。小倉祇園太鼓の小倉、港町の門司、官営八幡製鉄所の八幡。北九州市はこれに戸畑と若松を加えた5つの市が、昭和38年(1968年)に合併して生まれました。
北九州市は、大阪・名古屋・京都・横浜・神戸に次ぐ全国で6番目の政令指定都市で、人口100万人の大都市です。そのわりにはあまり知られていないのは、比較的に有名な旧市の地名が優先していることと、工業都市であること以外に特徴が無いからだと思います。
福博は博多のイメージで「全国区」になれたのですが、北九州市の場合は、旧5市の中に他の4市を凌駕するような強烈な個性を持った街がなかったこと、福博と違って5市の対等合併であったこと、さらに風土的に多様であることなどが原因で「全国区」になれなかったのだと思います。
先ほど、江戸時代と現在の連続性について述べましたが、北九州市は西部が筑前の国、東部が豊前の国と二つの国に分かれていました。筑前は福博と同じ黒田藩、豊前は小笠原藩です。黒田藩は、名軍師として名高い黒田如水を祖としており、対して小笠原家は鎌倉以来の名門譜代大名で、作法の小笠原流で有名です。真逆ですね。
これに近代の北九州地方の発展が加わり、北九州市の風土は4分されたように思います。
○川筋気質(若松・八幡西)
「川筋気質」と言う言葉を聞いたことがあるでしょうか?明治以降に炭坑で発展した筑豊地方※)の中心には遠賀川という川が流れており、石炭の積み出しに使われていたことから、炭坑夫の気の荒い気質を「川筋気質」といいます。
後に石炭の積み出しは鉄道が使われるようになり、「川筋気質」は、この鉄道である筑豊本線の沿線に広がります。筑豊本線は北九州市北端の若松区を起点とし、西部の八幡西区を通って筑豊に至ります。ですから、これらの地域には男性的で豪快な気風が残っています。
※ 福岡県の内陸北部の一帯。「筑前」と「豊前」の境にまたがっているので「筑豊」です。
○製鉄城下町(八幡東・戸畑)
前述の筑豊炭田の石炭を燃料として、明治34年(1901年)に官営八幡製鉄所(現在の新日本製鐵)が設立され、戦後のしばらくの間まで、日本の代表的な重工業地帯となりました。
私の里はまさにこの八幡東なのですが、小学校のクラスの半分の父親が製鉄勤務、スーパーは製鉄直営、プールも製鉄の厚生施設のプール、病院も製鉄病院。これらの施設は製鉄職員でなくても誰でも使えました。さらに製鉄の創業記念日(11月18日)は「起業祭」と呼ばれ、学校が休みでした。※)
※ 昭和60年(1985年)からは「まつり企業祭」という市民祭になり、11月3日(文化の日)前後に行われているので、学校は通常通りです。
因みに北九州市には新日鐵八幡製鉄所以外にも製鉄所はありますが、「製鉄」と言えば八幡製鉄のことです。地元の私ですら驚いたことに、公共の道路案内標識にも「製鉄」とありました。
製鉄所ですから、工場現場と事務所があります。八幡では工場現場の労働者は「職工」と呼ばれ、尊敬されていました。私が小学生の時、父親が製鉄勤務の友人に「おまえのお父さんは、工場か?事務か?」と聞いた時、その友人が胸を反らせて、誇らしげに「職工よぉ!」と答えたことを覚えています。「職工」は、職人と技術者と労働者を兼ね備えたような存在で、当に「男の仕事」でした。ですから、その気質は男性的ではありますが、炭坑夫の「川筋気質」よりもスマートで遊び上手です。
○大陸モダニズム(門司)
門司は戦前に大陸との貿易港として発展しました。そのため同じ港町でも、横浜や神戸とはひと味違った趣があります。例えばバナナの叩き売りは門司が発祥と言われています。重厚でモダンで少し粗野な感じは門司独特です。
実家の知人に、もと門司の芸妓で、その頃はスナックを営んでいた人がいました。大変美しい女性で、小学生の頃その店に行ってグレープジュースを飲みながら、ほのかな憧れを抱いていました。私にとって門司はそんな場所です。
○小笠原流?(小倉)
北九州市の行政・商業の中心は城下町の小倉です。
小倉祇園太鼓で有名ですが、小笠原藩の上品な家風と、勇壮な小倉祇園太鼓はそぐわないように感じます。そのはずで、小倉祇園で太鼓が激しく敲かれるようになったのは明治以降で、江戸時代に小倉祇園が始まった頃は、京都の祇園に倣い、「城下の各町々が思い思いに趣向をこらした飾り山車を出し、踊り子の舞台をしつらえるなどし、三味線・鉦・笛の賑やかな囃子で神幸に随って城下の町々を回っていた。」(小倉祇園太鼓保存振興会HPより)といった風情のあるものだったようです。
この、小倉祇園の変容が小倉の歴史を表しているように思います。つまり、本来の上品な小笠原風武家文化が、明治以降の川筋気質・職工・大陸モダンにのみ込まれて消えてしまった。若しくは融合して何だか訳のわからないものになってしまった。
小倉が博多のような個性を持たなくなってしまい、北九州市全体が一つのイメージをつくれない原因はそのあたりにあるような気がします。
■違って当たり前
九州支社に、Mという福岡生まれ福岡育ちのベテラン社員がいるのですが、彼によると、一定の年齢以上の人にとって、福岡と博多は歴然と違うのだそうです。
例えば、博多祇園山笠は鎌倉時代に始まった時から博多だけのものでした。博多に隣接する福岡の天神地区にも舁き山※)が出来たのは、僅か十数年前で、その舁き山も福岡だけで博多には入らないそうです。
※ 山笠には、大別すると、担ぐ「舁き山」と装飾的な「飾り山」があります。
私も、例えば東京で、北九州門司の人に出会う場合と、北九州八幡の人に出会う場合とでは全く感動が違います。無条件に「同郷ですねぇー!」と言えるのは八幡の人だけです。
福博が合併したのは130年以上前。それでも福岡と博多は一体にはなっていない。ましてや、合併からわずか40年の北九州市では、未だに旧市意識が根強く残っています。住民が新しい地元を本当に受け入れるには、途方もない年月が必要なようです。
平成の大合併によって、全国各地で自治体の合併が行われました。合併した自治体は熱心に「一体化」を進めていることと思います。
さて、本当に一体になる必要があるのでしょうか?
福博では、400年間にわたる福岡と博多の並立がプラスになり、現在の発展のエネルギーになっているように思います。
福博の魅力は、例えると当地の名物料理の一つである鯛茶漬け(地元では「鯛茶」とも言います)の様なものではないでしょうか。
しっかりしたご飯(福岡)に、生きのいい新鮮な鯛(博多)を置き、これにお茶をかけて「合併」させると、独特の香りが匂い立って、美味となる。
県外の皆さんが漠然と抱いている福岡・博多の魅力は、この鯛茶の香りのようなものだと思います。
私たちの生活や文化や心のよりどころは、行政の線引きなどではなく、歴史に根ざした地域や自然風土にあるような気もします。
皆さんがお住まいの地域はどうですか?
福博のように、無理に一体化せずお互いの個性を伸ばしあうのも、「地方の自立」のひとつの形であるのかもしれません。